絶望的恋愛体験

若きウェルテルの悩み (岩波文庫)

若きウェルテルの悩み (岩波文庫)

画像出ないから岩波の方にしちゃったけど、新潮文庫で読みました。
うーん、裏表紙にも書いてあったけど

多くの人々が通過する青春の危機を心理的に深く追求し、人間の生き方そのものを描いた時代の制約をこえる普遍性をもつ。

っていうその生き方云々のところは、なるほどなあと思うところもあったけど。わたしが恋愛至上主義じゃないのでねえ。手紙で話が進んでくのと、間で編者が出てくる手法は、こういうのもあるんだなーと。

たしかにわれわれは万事をわれわれ自身に比較し、われわれを万事に比較するようにできているから、幸不幸はわれわれが自分と比較する対象いかんによって定まるわけだ。だから孤独が一番危険なのだ。ぼくらの想像力は、自分を高めようとする本性に迫られ、また文学の空想的な映像に養われて、存在の一系列を作り上げ、われわれはその系列中の一番下ぐらいにいて、われわれ以外のものは全部われわれよりもすばらしく見え、誰もわれわれよりは完全なのだというふうに考えがちだが、それもさもあるべきことと思う。ぼくたちはよくこう思う、ぼくらにはいろいろなものが欠けている。そうしてまさにぼくらに欠けているものは他人が持っているように見える。そればかりかぼくらは他人にぼくらの持っているものまで与えて、もう一つおまけに一種の理想的な気楽さまで与える。こうして幸福な人というものが完成するわけだが、実はそれはぼくら自身の創作なんだ。
これに反してぼくらがどんなに弱くても、どんなに骨が折れても、まっしぐらに進んで行くときは、ぼくらの進み方がのろのろとジグザグであったって、帆や橈(かい)を使って進む他人よりも先に行けることがある、と実に思う。―そうして―ほかの人たちと並んで進むか、あるいはさらに一歩を先んずるときにこそ本当の自己感情が生れるのだ。

ここ面白いなあと思いました。でもそこまでこの作品が評価される理由がわからなかったので解説から引用しておく。

読書界は深刻な衝撃を受け、賛否両論の渦が巻き起こった。というのも、これはそれまでの小説の常識を完全に打ち破る作品だったからである。
十八世紀の小説は、恋愛小説にしろ、旅行小説にしろ、読者に娯楽を提供し教訓を与えることを目的としていた。すなわち十八世紀は芸術や文学の本質的機能を、人を「娯しませることと有益であること」に見ていたのに対して、『ウェルテル』は根源的に人間の生き方そのものを問題にしようとした。読者の思念は主人公がなぜ自殺しなければならなかったかという点に拘わりあわざるをえない。

この作品に対する非難の一つに、これは自殺弁護の書だとするものがあった。事実、この作品によって自殺が流行しさえした。しかしゲーテの真意は自殺弁護にあったわけではない。 (略) 作品創造によって自己を危機から脱出させるのは、ゲーテの天才的な常套手段である。こうして『ウェルテル』創作は、作者自身の青春の危機を乗り越えるための作業となった。

後年ゲーテは、「『ウェルテル』は、厭世という病的状態から生れたものであり、あの時代の病的風潮であったセンティメンタリズムを文学的に記録した小説である」と言っている。


さてわたしがこの本を手に取った理由ですが。結構前から「燕のいる駅」など(嵐が好きな方なので)、本当に様々な演劇・映画等の感想やまとめを書いていらっしゃるサイトにお邪魔していて、以前にのが演じた「シブヤから遠く離れて」についても色々読んでみて。シブヤ〜の登場人物が「ウェルテル」や「椿姫」に被るところがあるとのことだったので、気になって読んでみました。未だに古典は苦手だけど、早いうちに(もう大分遅いけど…)古今の名作に触れておこうと思い、最近は現代純文学?よりも古典を手に取るように心がけています。椿姫も読みたい。他の戯曲も気になる。